Stratford upon avon , United Kingdom

ウィリアム・シェイクスピアの出生地・Stratford upon avonを訪れました。この町は、いかに時代が流れても、Shakespeareという舞台芸術とそれを愛する世界中の人たちによって、その心が守られていると感じます。おかげさまで、とても穏やかで平和な1日を過ごすことができました。

1500年代後半〜1600年代前半にかけて、シェイクスピアの手で 美しい詩が連なるようにして綴られている戯曲は、優れた俳優や演出家のもと、舞台上で その言葉が声・身体の蠢き・感情を伴って発語・表出される=身体化される時、たちまち その場を魔術化します。空白の舞台上に 歴史が立ち現れ、往時を生きた人間の心、そして、時代を超えた人間の普遍的な感情に、演者・観客ともに身体感覚で繋がってゆきます。(同時に、この現象は、そんなに簡単に起こるものではないとも感じています。劇場で 目を凝らし 耳を澄まし 感じ取りながら 観ていますが、それが起こっている時と、そうでない時があるように思います)。ここで、とても大事なのは、これは小説ではなく、戯曲であるということです。書き文字として完結しているのではなく、劇場でその詩や物語が身体化されることではじめて結実される芸術であるのです。このシェイクスピア演劇で生まれうる現象は、日本の能や神楽にも深く通ずるものではないでしょうか。口承や演者の身体そのもので脈々と受け継がれてきた物語、舞、音楽、鼓動・リズムは、舞台上で 演者によって身体化される=舞い・踊り・謡い・音が奏でられることではじめて、過去現在未来を貫く幽玄的な舞台が立ち現れて、演者・観客はおのずと、芸術空間という日常とは異なった深層意識が響き合うゾーンに入り、この命は無意識的なものと接続されていきます。これは、専門家が創り上げる芸術だけに起こることではありません。たとえば、シアターワークにおいて、皆さまが自分のある気持ちを一人称で綴ります。この心情が綴られた言葉たちが、ノート上の書き文字であることを超えて、あなたに声に出して朗読される時、または 身体表現・音楽・踊りとして表現される時=身体化される時、その心の声は身体と深く結びつき、心の奥底に沈んでいた感情が発露されたり、ワーク後に深い癒しがもたらされたり、心と身体が結びついて整ったと感じることがあります。

シェイクスピアの戯曲=言葉には、それらを身体化していく演者の身体そのものを開いて自由にしていく鍵が秘められています。僕が英国留学中に学んだのは、まさにこの、「声」や「身体性」を演劇という芸術空間のなかで立ち上げていく演劇的実践であり、僕のシアターワークの根っこの一つとなっています。そして、それは、心身の潜在性や深層の心の声や葛藤を解放させてくれる術を持ち合わせており、幼い頃から心身の著しい不調和で苦しんでいた僕自身にとっては、芸術表現とは、人の命を蘇生させてくれるものでもあるということを教えてくれました。

藤田一照さんが、野口体操やヨガのアーサナなどを例に挙げながら「勁道の通ったからだ」というお話をされていたことが、深く心に残っています。もっとお話を聞いて勉強したいと思っていますが、その日のお話を僕なりの解釈で言葉にしてみますと、叡智のもとに創りあげられ伝授されてきている身体的なワークのなかで、身体がうまくしかるべきポーズやポジションに入ると、有機的な生命力が出ずる身体として再接続されていくということです。僕自身、この人生のなかで、毎日、特に心と身体が困難にある時には、ヨガやTaichiなどのボディワークを行うことで、歌・音楽・身体表現などの芸術表現を行うことで、大きな癒しと力を与えられてきていて、心身が整えられてきていますので、一照さんのお話は、とても腑に落ちるものがありました。シェイクスピアの戯曲も、長い歳月をかけて受け継がれてきた叡智であり、その叡智にフィジカルにアクセスしていくことができるという意味で、すこしかたちこそ違いますが、同じく優れた身体的芸術的な仕掛けの一つとも言えるのではないでしょうか。俳優や演出家によって 戯曲を舞台上で身体化してゆくリハーサルのプロセスそのものが、演者の心と身体を解放して自由にし、他者と比べようのない、それぞれ特有の本来の声・身体の動きを生き生きと生み出していく可能性に満ちているという意味で、シェイクスピアの戯曲は、演者の心と身体を解放させる芸術的な装置としても機能しています。

Royal Shakespeare Companyのプラクティショナーは、シェイクスピアの戯曲の言葉の一つ一つを理解していくのはとても難しいけれど、最も大事なのは、それらを声に出して読んでみること、つまり、身体化してみることだと言っています。僕はシェイクスピア演劇を鑑賞する時は、その言葉を意味として理屈で理解していくのではなく、俳優というアーティストから発語される「音楽」として聴いていて受け取っています。言語の響きが美しく層をなしている音楽です。神道における祝詞なども、書き文字というよりは、音楽的な言霊として、それらが発語されていくことによって、一つの働きが生まれているのを感じます。

たとえば、これまで、どんな世界のなかでも、「もがいてなやんでくるしみぬいて見つけろ」とか「しにものぐるいでやってみろ」とか、ぎょっとするような恐ろしい言葉とともに、自分自身を追い込み、まるで歯をくいしばって血をはきながらがんばっていかなければならない気持ちになるような、そんなことが盛んに言われてきた節があるのではないでしょうか。それも一つの方法と選択肢としてあって良いと思いますし、その方法がぴったり合う人は良いのですが、僕自身は、身体が緊張し萎縮していくこの方法がまったく合わなかったのです。そこで、一つの提案として、僕がシアターワークで皆さまと共有させていただいているのは、表現手法を用いたファジカルなワークとともに、ありのままのご自身の心・身体の状態を優しく受け入れて認め、身体の怖れや緊張をほどいていき、強張ったものをほぐしゆるめていき、心と身体の動きたい方向へ、望んでいる方向へ、丁寧に優しく動かしてあげながら、本来の自分自身の心・身体に出会っていくというものです。心・身体が真にリラックスしている時こそ、その人本来の魅力が存分に溢れてくるというのが、シアターワークで最も大事にしている基本的な考えです。英国でも、そこに光を当てて、私たちの身体を開いて自由にしていくワークの専門家さんたちと交流・協同をしています。

Stratford upon avonでの午後は、バーミンガム大学のThe Shakespeare Instituteで博士号を取得し、現在はワォーリック大学で教鞭をとられているシェイクスピアの専門家で、俳優・演出家という実践家としてもご活躍されている方と面会しました。その場では、来たる将来に、私の「Theatre for Peace and Conflict Resolution」におけるマインドフルネスや内観などを取り入れた東洋的な間において浮かび上がるシアターワークの世界を共有すること、そして、私は さらに深く 英国の彼らの「Teaching Shakespeare」の世界を学ぶことを誓い、英国-日本という双方向から知識・技術・感性を共有し、協同していくための具体的な方法について話し合いました。インスピレーションをたくさん受けた、本当に素晴らしいAfternoon Tea の時間でした。

写真は、Royal Shakespeare theatre、シェイクスピアが眠っている Holy Trinity Churchにて。

小木戸 利光

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