中川れい子(NPO法人タッチケア支援センター理事長)

「ソマティクスと表現」
2日目の午後は、ロルファーで身体研究家の藤本靖先生と、アーティストで俳優の小木戸利光先生のワークショップをとりました。タイトルは「シアターワークで体験するソマティクス」最後は、ソマティクスの本家本元、内側から生き生きと自分自身を感じる体験へ。

私自身の大学時代の専攻が、もともとが「美学」。アートや表現についてを学んできたのですが、なので、そこから、ケアや癒し、ボディワークへと辿りつくことは、自分でも摩訶不思議な旅でもありました。とはいえ、私の中で、癒しやケアが、ソマティクスでなければ困る理由は、この私のルーツにあります。

芸術やアートは、瞬間瞬間にその感動は生まれ、そして一人一人の内側のハートに届くものです。その感動が、内側から感じる活き活きとした私のからだ、ソーマを通して起こるものでもあります。

舞踏や演劇のみならず、音楽や、絵画、そして、詩や小説ですら、身体的な表現であり、それは、芸術家のソーマから、観客のソーマへと伝達するものなのでしょう。

これは、初日のパネルディスカッションで語られた60年代、80年代の「肉体の反乱」ともつながるし、また、ソマティクスの草創期である、1920年代のヨーロッパで起こった舞踏表現にもつながります。

8月に、大阪大学で開催された、エビデンスに基づく統合医学研究会での「人に寄り添うケアとは」のパネルディスカッションで、京都大学医学部看護学教授で元淀川キリスト教病院師長の田村恵子先生から、セラピストたちは、ケアの現場を、自分自身の「表現」にしてしまってはいないか?という問いかけを思い返します。それが、一方的な自己表現にすぎないのならば、ケアの現場にセラピストはかかわらないほうが良いと思うのですが、本来、エサレンや、ソマティクスから来ている私にとって、ケアやセラピーとは、どこか身体的な表現と切り離すことができずにいる自分がいました。

ようするに、セラピスト自身が、「私が何を感じ、考えているのか? そして、どのように動くのか?」という一人称を手放して、100%相手に寄り添うということは、不可能だからです。少なくとも、セラピスト自身の、内側の心地よさ、、、は、とても重要。

ここは、藤本先生が、能の「離見の見」を例にとり、とてもわかりやすく解説してくださいました。「ケア」というテーマの大会に、こうしたワークショップは、ある意味、チャレンジでらっしゃったと思いますが、ソマティクスの原点は表現やアートと切り離すのは無理があるのでしょう。

俳優の、小木戸さんの動きや、身のこなしはとても美しく、時とともに、しなやかに会場全体をつなげていきます。微細で繊細な動き。大地と、空気、、、そして、参加者とのつながり。

こうした、波のような動きが、エサレンボディワークの場合、エネルギーのみならず、癒しそのものを創り出すことを、私たちは、知っています。だから、動きはとても大切な癒しの要素。(だから、エサレンボディワークは、The art of Healing ともよびます)

藤本さんのガイドによる、コンタクトインプロゼーションも、一人称と、間主観がつながっていく、人と人との「寄り添い」の原点を、動的に再体験しました。この人と人とのあり方、寄り添いの、一人称と一人称とがつながるリアリティを、ケアの現場にもっと伝えれたらなぁといつも思うのですが、、(実はここを伝えるのが一番難しい)

小松ゆり子(Touch for World 代表/パーソナル・セラピスト)

最後の分科会は藤本靖先生と、アーティスト・俳優の小木戸利光さんによる「演劇と身体論 『シアターワークで体験するソマティクス』」。

これが、まさに「セラピーと芸術」が相互であることを体験できる、とても面白いものでした。

********

常々アーティストはある種のヒーラーである、と思っている。

シャーマニズムやそれにまつわる儀式は何かしらの芸術性が付随していることも多い。

シャーマンやアーティストは、より粒子が細かいものを感じとることに長けている人たちなのだと思う。

最初に小木戸さんから「”表現”とは?」という問いが。

「表現=表に現れる」ということ。

********

人が場と対峙すると、自然に場と自分の内面との間に化学反応が生まれ、それが動きになる。

動きは、踊りになることも、声や歌になることも、言葉や物語を書き記すことになることも、絵や色彩として留めようとすることに発展したりもする。

その結果が、芸術、アートと呼ばれる。

どうしようもなく、内側から外へと、溢れ出てしまうものの臨場感。

自分の内側のみならず、時には集合無意識的なものをひっぱりだして場と対峙することもあるかもしれない。

そうした「表現」にふれた人は、そこに宿るなにか目に見えない部分を嗅ぎ取り、そこでカタルシスを得て、癒しとなるのではないかと感じました。

********

最初のワークは、自分の感情が動かされたエピソードを「他人に伝わるように」書き記す。そして選ばれた男性が、その時の感情を感じながら、部屋の中を歩く。そこにもう一人、別のエピソードと感情を持つ女性が加わって、歩く。

他の参加者は、その様子を観客のように見守る。

ワークの中で、自分の感情を抱えたまま歩く2人は、そのまま一つの物語になっていく。

男性のやるせなさを湛えた背中、だんだん遅くなっていく歩調、次第に立ち止まり、うずくまる。

一方で女性は怒りと共にあり、自分の腕を叩いたりしながら、スピーディに無秩序に歩き回る。

時に二人が接触しそうになると、それによって目に見えない空気の変化が生まれる。

人と人の「あわい」に存在する目に見えない「何か」がはっきりとわかる。

その様は実に生々しく、歩いている様、速度、表情は紛れもなく濃厚な「ドラマ」。

********

続いて、藤本先生からは「世阿弥」の「離見の見(りけんのけん)」の話を。

元々は「演者が自らの身体を離れた客観的な目線をもち、あらゆる方向から自身の演技を見る意識」のことを言うようで、自分が客席を見る視点である「我見」、客席が自分を見ている視点である「離見」、3つの視点が存在すると考える。

お能の演者は舞台に立つ前に面をつけたまま30分ほど鏡に向かう。

そうやって、しっかりと内に入ってから外を見る。

********

今回はこれを応用して、まるで能面の内側から世界を見るような心持ちになって見ると、自分の「表現」はどう変わるか?と言うワークをしました。

「私」が見る「我見」。(主観)
「あなた」が私を見る「離見」。(相手の主観)
あなたが私を見ているのを「俯瞰して」見る「離見の見」。(メタ認知)

パートナーと膝をつき合わすほど近く向かい合い、目の前いるその人の目を見て、先ほど書き記したエピソードを相手に話して見る。

と、まぁ正面にいる人と向かい合っているだけで非常に居心地が悪い(笑)

そして、次に擬似的に能面をかぶってみる。

顔の前にかざした掌を面に見立てて、指の隙間から相手をみる。

そうしてしっかり内に入ってから、手を外し、先ほど書き記したエピソードを相手に話すと、同じ距離感であるにもかかわらず、何か目に見えない防御壁があるような感覚がする。

落ち着いて相手の目を見ながら伝えることができる感じがする。

意識で作る「面」の存在が、わたしたちを変える。

********

実は、先の二人が感情を抱えながら歩く様を観ていた私は、気づけばドップリと重たい何か、を腹に抱えていました。

よく「エネルギーを受ける、受けない」というような話題がセラピスト間で出ることがあるけれど、私はセラピーの時にはそういったことはほとんどない。

なんとなく、それは体質的に受けにくいものなのかと思っていたけれど、今回のワークを通じてわかったのは、それは「セラピー」と言う枠組みになったその瞬間から「面」をしっかりつけるクセがついているからだということ。

でも、ドラマの渦中で感情を放出する2人を、軽い気持ちで無防備に眺めていたらこんなにもゴフッとなる!しかも、まるで「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観終わった後のような、やり場のない、尾をひく重さ。心理療法だと少しずつ様子を見ながら。。。と言うところも「演劇」と言うフォーマットを借りると、なかなかスリリングな感じで切り込めるんだなぁと感じました。そのせいか、出てくるモノが生々しくてダイレクト。今回は短いワークだったから、それを消化するほど展開するには時間が足りなかったのかも。

でも、日頃心身が頑丈すぎることがややセラピストとしての機微にかける気がしていたのだけど、「意外と微細なものを感じているじゃないか!」と、腹に重いものを抱えながらも喜ぶ私(変態・笑)

********

それにしても、こんな風に感情を出し入れする「役者」さんと言うのは本当に大変だろうといつも思う。

下手すると、沼のように役柄から抜けられなくなり、役の感情が自分の自律神経系やホルモン系にも作用して、体調にも影響が出るかもしれない。

きっとそれは、ケアする側やセラピスト側にも同じことが言える。

だからこそ、自分の「ニュートラル」「クリアさ」がどこにあるかを知る必要がある。

それを知ることで、「演技」「ケア」「セラピー」どのシーンであっても、本番の時にギアを入れ、終わったらスッと元に戻ることができるようになる。

では「ニュートラル」になる方法とは!?

こんな風に「シアターワーク」と「離見の見」の体験は、目に見えない領域をどう感じるか、どう整えるか、と言う長年の課題に対する一つの答えや新たな課題を提案したようで。

数日経った今もまだこの体験を考察しているわけです。

いやー、めちゃめちゃおもしろかった。

********

本田泰成 (立教大学 学生)

自分の絶望した時を描写して、最終的に言葉だけじゃ物足りないから、声で、身体で表現するワークでした。
その時に驚いたのが(言葉として改めて、あ〜そうだよね、わかるわかる。となったのが)
表現とは空間性、その時の周りの人間関係、圧、環境の中ですじが出てきて(あわいという言葉も少ししっくりきます)、ただそれに添うということ。
自分の内在されたものの奥底にあるものと、それらの環境のあわい。それを身体がつなぐのか、とわかる。

踊りもそうで、踊りって本来そういうものなのに。。。という自分の停滞感が解放された感じがありました。

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上智大学 日本ソマティック心理学協会大会「ケア」と「ソーマ」〜心と体からの癒しを探る〜 にて、
ボディワーカー・身体論者の藤本靖さんとともに「演劇と身体論」〜シアターワークで体験するソマティクス としてワークショップを行いました。

僕 小木戸利光は、英国ノーザンブリア大学の演劇・パフォーマンス科にて、現在の”シアターワーク” に通ずる芸術表現を通じた人間教育の可能性を最初に学びました。演劇教育や心理療法としてのシアターワークは、特にイギリスやアメリカでは社会的にもよく認知されているかと思いますが、日本ではまだまだほとんどよく知られていないと言ってよいのではないかと思います。僕は、大学などの教育機関においては一つの実践の学問として、また同時に、地域社会・コミュニティーにおいては自他の存在を尊び、各々の心と身体とともに健康に生きてゆくための一つの実践的方法として「シアターワーク」をもっともっとたくさんの人たちに知って 体験してもらい、自分自身の心と身体の働きや実感を通じて、より自らの存在の核心に近づき、それを獲得してゆくきっかけにしていただくことができればと願っております。

日本ソマティック心理学協会大会にて、シアターワークにご参加の方々が感想を寄せてくださいました。そのいくつかを、以下に一部抜粋、紹介させていただきます。ボディワーカー・身体論者の藤本靖さんと協同でワークショップを行いました。

中川れい子(NPO法人タッチケア支援センター理事長)

「ソマティクスと表現」
2日目の午後は、ロルファーで身体研究家の藤本靖先生と、アーティストで俳優の小木戸利光先生のワークショップをとりました。タイトルは「シアターワークで体験するソマティクス」最後は、ソマティクスの本家本元、内側から生き生きと自分自身を感じる体験へ。

私自身の大学時代の専攻が、もともとが「美学」。アートや表現についてを学んできたのですが、なので、そこから、ケアや癒し、ボディワークへと辿りつくことは、自分でも摩訶不思議な旅でもありました。とはいえ、私の中で、癒しやケアが、ソマティクスでなければ困る理由は、この私のルーツにあります。

芸術やアートは、瞬間瞬間にその感動は生まれ、そして一人一人の内側のハートに届くものです。その感動が、内側から感じる活き活きとした私のからだ、ソーマを通して起こるものでもあります。

舞踏や演劇のみならず、音楽や、絵画、そして、詩や小説ですら、身体的な表現であり、それは、芸術家のソーマから、観客のソーマへと伝達するものなのでしょう。

これは、初日のパネルディスカッションで語られた60年代、80年代の「肉体の反乱」ともつながるし、また、ソマティクスの草創期である、1920年代のヨーロッパで起こった舞踏表現にもつながります。

8月に、大阪大学で開催された、エビデンスに基づく統合医学研究会での「人に寄り添うケアとは」のパネルディスカッションで、京都大学医学部看護学教授で元淀川キリスト教病院師長の田村恵子先生から、セラピストたちは、ケアの現場を、自分自身の「表現」にしてしまってはいないか?という問いかけを思い返します。それが、一方的な自己表現にすぎないのならば、ケアの現場にセラピストはかかわらないほうが良いと思うのですが、本来、エサレンや、ソマティクスから来ている私にとって、ケアやセラピーとは、どこか身体的な表現と切り離すことができずにいる自分がいました。

ようするに、セラピスト自身が、「私が何を感じ、考えているのか? そして、どのように動くのか?」という一人称を手放して、100%相手に寄り添うということは、不可能だからです。少なくとも、セラピスト自身の、内側の心地よさ、、、は、とても重要。

ここは、藤本先生が、能の「離見の見」を例にとり、とてもわかりやすく解説してくださいました。「ケア」というテーマの大会に、こうしたワークショップは、ある意味、チャレンジでらっしゃったと思いますが、ソマティクスの原点は表現やアートと切り離すのは無理があるのでしょう。

俳優の、小木戸さんの動きや、身のこなしはとても美しく、時とともに、しなやかに会場全体をつなげていきます。微細で繊細な動き。大地と、空気、、、そして、参加者とのつながり。

こうした、波のような動きが、エサレンボディワークの場合、エネルギーのみならず、癒しそのものを創り出すことを、私たちは、知っています。だから、動きはとても大切な癒しの要素。(だから、エサレンボディワークは、The art of Healing ともよびます)

藤本さんのガイドによる、コンタクトインプロゼーションも、一人称と、間主観がつながっていく、人と人との「寄り添い」の原点を、動的に再体験しました。この人と人とのあり方、寄り添いの、一人称と一人称とがつながるリアリティを、ケアの現場にもっと伝えれたらなぁといつも思うのですが、、(実はここを伝えるのが一番難しい)

小松ゆり子(Touch for World 代表/パーソナル・セラピスト)

最後の分科会は藤本靖先生と、アーティスト・俳優の小木戸利光さんによる「演劇と身体論 『シアターワークで体験するソマティクス』」。

これが、まさに「セラピーと芸術」が相互であることを体験できる、とても面白いものでした。

********

常々アーティストはある種のヒーラーである、と思っている。

シャーマニズムやそれにまつわる儀式は何かしらの芸術性が付随していることも多い。

シャーマンやアーティストは、より粒子が細かいものを感じとることに長けている人たちなのだと思う。

最初に小木戸さんから「”表現”とは?」という問いが。

「表現=表に現れる」ということ。

********

人が場と対峙すると、自然に場と自分の内面との間に化学反応が生まれ、それが動きになる。

動きは、踊りになることも、声や歌になることも、言葉や物語を書き記すことになることも、絵や色彩として留めようとすることに発展したりもする。

その結果が、芸術、アートと呼ばれる。

どうしようもなく、内側から外へと、溢れ出てしまうものの臨場感。

自分の内側のみならず、時には集合無意識的なものをひっぱりだして場と対峙することもあるかもしれない。

そうした「表現」にふれた人は、そこに宿るなにか目に見えない部分を嗅ぎ取り、そこでカタルシスを得て、癒しとなるのではないかと感じました。

********

最初のワークは、自分の感情が動かされたエピソードを「他人に伝わるように」書き記す。そして選ばれた男性が、その時の感情を感じながら、部屋の中を歩く。そこにもう一人、別のエピソードと感情を持つ女性が加わって、歩く。

他の参加者は、その様子を観客のように見守る。

ワークの中で、自分の感情を抱えたまま歩く2人は、そのまま一つの物語になっていく。

男性のやるせなさを湛えた背中、だんだん遅くなっていく歩調、次第に立ち止まり、うずくまる。

一方で女性は怒りと共にあり、自分の腕を叩いたりしながら、スピーディに無秩序に歩き回る。

時に二人が接触しそうになると、それによって目に見えない空気の変化が生まれる。

人と人の「あわい」に存在する目に見えない「何か」がはっきりとわかる。

その様は実に生々しく、歩いている様、速度、表情は紛れもなく濃厚な「ドラマ」。

********

続いて、藤本先生からは「世阿弥」の「離見の見(りけんのけん)」の話を。

元々は「演者が自らの身体を離れた客観的な目線をもち、あらゆる方向から自身の演技を見る意識」のことを言うようで、自分が客席を見る視点である「我見」、客席が自分を見ている視点である「離見」、3つの視点が存在すると考える。

お能の演者は舞台に立つ前に面をつけたまま30分ほど鏡に向かう。

そうやって、しっかりと内に入ってから外を見る。

********

今回はこれを応用して、まるで能面の内側から世界を見るような心持ちになって見ると、自分の「表現」はどう変わるか?と言うワークをしました。

「私」が見る「我見」。(主観)
「あなた」が私を見る「離見」。(相手の主観)
あなたが私を見ているのを「俯瞰して」見る「離見の見」。(メタ認知)

パートナーと膝をつき合わすほど近く向かい合い、目の前いるその人の目を見て、先ほど書き記したエピソードを相手に話して見る。

と、まぁ正面にいる人と向かい合っているだけで非常に居心地が悪い(笑)

そして、次に擬似的に能面をかぶってみる。

顔の前にかざした掌を面に見立てて、指の隙間から相手をみる。

そうしてしっかり内に入ってから、手を外し、先ほど書き記したエピソードを相手に話すと、同じ距離感であるにもかかわらず、何か目に見えない防御壁があるような感覚がする。

落ち着いて相手の目を見ながら伝えることができる感じがする。

意識で作る「面」の存在が、わたしたちを変える。

********

実は、先の二人が感情を抱えながら歩く様を観ていた私は、気づけばドップリと重たい何か、を腹に抱えていました。

よく「エネルギーを受ける、受けない」というような話題がセラピスト間で出ることがあるけれど、私はセラピーの時にはそういったことはほとんどない。

なんとなく、それは体質的に受けにくいものなのかと思っていたけれど、今回のワークを通じてわかったのは、それは「セラピー」と言う枠組みになったその瞬間から「面」をしっかりつけるクセがついているからだということ。

でも、ドラマの渦中で感情を放出する2人を、軽い気持ちで無防備に眺めていたらこんなにもゴフッとなる!しかも、まるで「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観終わった後のような、やり場のない、尾をひく重さ。心理療法だと少しずつ様子を見ながら。。。と言うところも「演劇」と言うフォーマットを借りると、なかなかスリリングな感じで切り込めるんだなぁと感じました。そのせいか、出てくるモノが生々しくてダイレクト。今回は短いワークだったから、それを消化するほど展開するには時間が足りなかったのかも。

でも、日頃心身が頑丈すぎることがややセラピストとしての機微にかける気がしていたのだけど、「意外と微細なものを感じているじゃないか!」と、腹に重いものを抱えながらも喜ぶ私(変態・笑)

********

それにしても、こんな風に感情を出し入れする「役者」さんと言うのは本当に大変だろうといつも思う。

下手すると、沼のように役柄から抜けられなくなり、役の感情が自分の自律神経系やホルモン系にも作用して、体調にも影響が出るかもしれない。

きっとそれは、ケアする側やセラピスト側にも同じことが言える。

だからこそ、自分の「ニュートラル」「クリアさ」がどこにあるかを知る必要がある。

それを知ることで、「演技」「ケア」「セラピー」どのシーンであっても、本番の時にギアを入れ、終わったらスッと元に戻ることができるようになる。

では「ニュートラル」になる方法とは!?

こんな風に「シアターワーク」と「離見の見」の体験は、目に見えない領域をどう感じるか、どう整えるか、と言う長年の課題に対する一つの答えや新たな課題を提案したようで。

数日経った今もまだこの体験を考察しているわけです。

いやー、めちゃめちゃおもしろかった。

********

本田泰成 (立教大学 学生)

自分の絶望した時を描写して、最終的に言葉だけじゃ物足りないから、声で、身体で表現するワークでした。
その時に驚いたのが(言葉として改めて、あ〜そうだよね、わかるわかる。となったのが)
表現とは空間性、その時の周りの人間関係、圧、環境の中ですじが出てきて(あわいという言葉も少ししっくりきます)、ただそれに添うということ。
自分の内在されたものの奥底にあるものと、それらの環境のあわい。それを身体がつなぐのか、とわかる。

踊りもそうで、踊りって本来そういうものなのに。。。という自分の停滞感が解放された感じがありました。

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